死が怖い人へ~死の恐怖を和らげる論理的思考

死が怖い人へ~死の恐怖を和らげる論理的思考

普段の生活ではあまり意識することは無い「自分の死」。

毎日の忙しい生活・活動の中では、誰もがいつかは迎えなければならない「自分の死」について考えることは全く無いか、少ないのが一般的でしょう。

身近な人やペットとの別れを体験した時に「死」について考えることはあっても、それは一時的で、いつの間にか死についての思考は薄くなっていき、忘れていきます。

しかし、一方で、「死恐怖症・タナトフォビア」という症状で知られていますが、死について繰り返し考えてしまったり、日常生活に影響を及ぼしてしまうほどの恐れや心配を抱えながら生活している人もいます。

また、余命宣告を受け、自分の死に否応なしに向き合わなければいけない状況に置かれている人もいるでしょう。

私は「死」について日常的に考えてしまう傾向があり、かつては結構強い心配や恐怖の対象だったのですが、ある考え方をするようになってから「自分が死ぬことへの恐怖」が非常に軽減されました。

この記事では、今、死への恐怖で悩んでいる方向けに、私が死への恐怖をほぼ乗り越えられたと考えている「死生観」を書いていきたいと思います。

注意
死への恐怖を和らげることは、命を軽んじることとは全く異なります。命を軽んじる行動や思考などのために、この記事を読んだり、利用したりしないでください。

はじめに

先ほど「ほぼ乗り越えられたと考えている」と書きましたが、なんでそんな曖昧な書き方をしたかというと、例えば余命宣告をされるとか、そのような実体験を経ての話しではないからです。

人がどんな気持ちになるかや、どのような行動を起こすかなどは、実際にそのような状況が生じるまで分からないものです。死に直面していない状況下で、偉そうに「死は怖くない」とか言っていても、いざ余命宣告をされた時に平静でいられるかは、その時になってみないと分かりません。

何かの本で読んだのですが、「ワシは死ぬのは怖くない」と言っていたお坊さんが、余命宣告をされたら「怖い、死にたくない」と狼狽し、周囲を困惑された例もあるくらいですから。

ただ、日常的に「死への恐怖」を感じることは、全くと言っていいほど無くなっている、と言うことはできます。

これから、私の死についての考え方を書いていきますが、最初に「なぜ死を怖いと感じるのか」、そして「死の何が怖いのか」について、私なりの見解を書き、その後で「死への恐怖を和らげる死生観」について書いていきたいと思います。

なぜ死が怖いのか

最初に「どうして死を怖いと感じるのか」について、自分なりの考察をしてみたいと思います。

私は、それには2つの理由があると考えています。

プログラミングされている

まず、死への恐怖は、DNAに刻まれているのではないかと思います。

つまり、食欲や睡眠欲や性欲と同じように、本能的なものとして、生まれた時から潜在的に誰もが持っているのなのではないか、と思うわけです。

体験を通じて芽生える

本能的・潜在的に「死への恐怖」を持っていたとしても、自我の発達していない赤ちゃんや幼児は「死への恐怖」は感じてはいません。

自我がある程度成長して、様々な感情を体験するようになると、死への恐怖が目覚める準備が整うように思います。そして、例えばペットの死、身近な人の死など「愛の対象の死、喪失、悲しみ」を通じ、「死は忌避すべきもの」「死は怖いもの」という認識を深めていくのではないでしょうか。

死への恐怖レベルが人によって違うのは、どのような体験を経てきたかの違いによるものが理由の一つでしょう。

MEMO
これらのことを考えると、「死への恐怖」を抱くことは、生物として全く正常なことであり、当然なことのように思います。

死の何が怖いのか

次に「死の何が怖いのか」について、ちょっと書きたいと思います。

これは、「人それぞれ」という面があると思うので、これから書くのは、死に強い恐怖感を持っていた頃の私の場合です。

アイデンティティーの喪失

単純に「私の喪失」と言ってもいいかもしれません。「私という意識・存在」が消えてしまうことへの恐怖ですね。

愛するものとの別れ

「愛するもの」とは、人やペットもそうですし、愛している活動や仕事も含まれます。愛している人に二度と会えなくなる、愛している活動に二度と携われなくなる、など、愛する対象を喪失することへの恐怖ですね。恐怖もありますが「悲しみ」も大きいですね。

死の恐怖を和らげる私なりの死生観

死の恐怖を和らげる私なりの死生観

では、死への恐怖を(いまのところ)克服できた、私の考え方、死生観を書いていきたいと思います。

まず、2つの場合に分けて考えます。

一つは「死後の世界はあると仮定した場合」、もう一つは「死後の世界は無いと仮定した場合」です。

死後の世界はあると仮定した場合

宗教やスピリチュアル的なものが発展し、一定の人を惹きつけているのは「死への恐怖を和らげる効果」があることが、一つの理由ではないかと思います。

宗教やスピリチュアル的なものは、「死後の世界はある」という前提、考え方に立っている場合が多いでしょう。

もし「死後の世界はある」と信じるなら、「死への恐怖」は、ほぼ問題無くなるのではないでしょうか。肉体的な死を通過しても、その人の精神的(霊的)なものは生き続ける、つまり、アイデンティティーの喪失は無いわけですし、愛する者との再会や愛する活動に引き続き携われることも期待できるわけですから。

死後の世界は無いと仮定した場合

「死後の世界は無い」と仮定した場合は、ちょっと厄介です。その前提に立つと、死の後はアイデンティティーが消えてしまい、まったく「無」なのですから。

でも、それでも大丈夫です。怖くありません。

あなたは「自分の死」を体験できない

さて、ちょっと考えてみて欲しいのですが、あなたは「自分の死」を体験できるでしょうか?

毎日の睡眠のことを考えてみると分かりやすいでしょう。

まず「眠りに落ちる瞬間」は知覚できませんし、眠っている間は「眠っている」ことを知覚できていません。周囲の人は「この人は眠っている」と知覚できますが、眠っている本人は自分が眠っていることなど分かりません。目が覚めたときに「自分は眠っていた」と気づきますが、それまでは無自覚です。

死は眠りと同じです。「自分が死ぬ瞬間」を知覚したり「自分の死」を知覚することは全く不可能です。

あなたは「自分の死」を体験できません。

言葉を変えると、「自分にとって、自分の死は存在しない」と言うこともできます。「死」はあくまで自分以外の生き物に生じる現象であって、私自身にとっては「死は存在しない」のです。

ぐっすり眠るの好き?

再び睡眠の話しです。

あなたは「ぐっすり眠る」ことは好きですか?(私は大好きです!)

夢を見ていないような深い眠りにあるとき、愛する人も、愛する活動も、世界も、普段知覚しているモノ一切が、そこには存在しておらず、「自分・私」すら存在していません。

ですが、ほとんどの人は、そのような状態(全く知覚が無い深い眠りの状態)が好きで、深く眠ることを「幸せ」と考えているのではないでしょうか。

その状態、死と全く変わりません。

違いは、再び「自分や世界を知覚できる状態に戻る」か「もう戻らないか」、それだけです。

まとめ~死生観を持っておくことは大切と思う

私は次のように考えることで、日常的に感じていた死への恐怖をほぼ克服できました。

  • 死後の世界はあると仮定した場合
    死と呼ばれる現象を通過しても生きるんですから、怖くないですね。
  • 死後の世界は無いと仮定した場合
    自分の死は体験できない。「私」にとって「死」は存在し得ず、恐怖の対象になり得ない。(自分の死は、自分の思考の中だけにしか存在しない。)
    ぐっすり眠っている状態と同じで、ぐっすり眠ることは好きで幸せ。

余命宣告されるなど、本当に自分の死に直面したとき、どう感じるかは実際にその時になってみないと分かりませんが、自分なりの「死生観」を持っておくことで、冷静に対応できるのではないかと思います。

核家族化が進んだ社会や、自然や生き物に触れることがあまりない環境にいる人にとって、「死」は遠くのもので、忌むべきものであり、避けるべきものであり、嫌うべきもの、イャなものになりがちではありますが、実は身近で、いつでも起こりえる現象で、生き物として至極自然な現象です。

私の死生観が、ちょっとでも役に立てば幸いです!

重要
最初にも書きましたが、死への恐怖を和らげることは、命を軽んじることとは全く異なります。命を軽んじる行動や思考などのために、この記事を読んだり、利用したりしないでください。